SNOWLOGの日記

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四人の噺家さんの「芝浜」

 暗い話ばかりなので、明るいたのしい話も。

みそかと言えば「芝浜」である。

酒で落ちぶれた魚屋が

大金の入った財布拾ったが

女房はそれは夢だよと伏せて、

魚屋は仕事に励んで

小さいながらも自分の店を持つまでに再生する

人情噺である。

今なら拾得物横領であるが

いちおう届け出はしている。


 三代目桂三木助、三代目古今亭志ん朝

十代目柳家小三治、五代目立川談志

の芝浜を聴いている。

4人の「芝浜」である。

 
 三代目三木助と言えば「芝浜」、

「芝浜」といえば三代目桂三木助である。

三木助は落語評論家の安藤鶴夫の影響を受けて、

文学的に視覚的に「芝浜」を演じているらしい。

らしいというのは現在を前提しているからであり

当時どのように関わったのかはわからない。

芝浜とはどういうところでどのような魚が捕れたのかと

おかみさんが魚屋を起こす夫婦の話になるまでの描写が長い。

最後にぼそっと「夢になるといけねえ」というところはいい。


 十代目柳家小三治はすっとさらっと本編に入るという感じである。

落語は笑ってしまうものというのが小三治師匠の落語観である。

古典落語はもともと面白いのでちゃんと演じれば

お客さんは自然と笑うものだというのが小三治師匠である。

江戸前というか、おかしな話を押さない柳家らしい。


 立川談志師匠は夫婦のドラマに重点を

おいて「芝浜」を改作したというより、

人間の業としてなのだろうか

ふつう大金を拾ったら、仕事に励まないで

皆金をつかいこむんじゃないのか?と言いだす

「談志の噺」になっている。

話し方も現代風である。

このへんが談志好きにはたまらないのであろう。


 三代目古今亭志ん朝は何を演じても上手いのだが、

この「芝浜」を名作として完成させたとおもう。

志ん朝師匠の落語は誰が聴いても面白く楽しめる。

聴いてる人に解釈させたり考えさせたり演者自身が解釈したりではなく

江戸東京言葉を駆使して、何の気なしにその場で聴いて面白くて、

ライブパフォーマンスとしてはこれが最高なのである。

夫婦を描いた人情噺として楽しく聴けるのである。

 志ん朝師匠は「間」を重視している。

立川談志や五代目三遊亭圓楽がべらべらと切れ目なくはなすのと

対照的である。


 作家の都築道夫氏が「落語やミステリまで芸術になっちゃかなわない。」

と生前言っていたが、落語は気軽に聴いて、

ああ、おもしろかったというのがいいのだ。

 しかし、わたしは安藤鶴夫氏と小林信彦氏を

尊敬しているのだが、落語を文学化させたのは

安藤鶴夫氏である。

こういうと、お前が落語文学派支持するのなら、

お前のいってることは矛盾しているではないか

といわれそうだが、

気軽に聴けるということは安藤氏も小林氏も否定はしていない。

二人とも作家であるから活字にはこだわるのだ。


 ちょっと脱線してしまったが、もっとも好きな「芝浜」は

古今亭志ん朝師匠の「芝浜」である。

 志ん朝師匠の「芝浜」は女房が魚屋を起こすところから始まるのではなく、

腕のいい魚屋なのに昼飯で酒を飲むようになってから、

お得意様に時間がたって魚が古くなって

匂いがするよといわれて信用を失い、

やけくそになって酒におぼれて落ちぶれてゆく過程を演じている。

湯屋にいって友達を連れてくるところも出てくる。

この点がけっこう重要で、魚屋のおちぶれさ加減を加速させている。

商いに明日は行く明日は行くといって、

ずっとはたらかない魚屋を

みそかに女房が亭主の魚屋に

「準備ができてるんだから商いに行ってくれ」

と説得する女房という場面を細かく描いている。

これはお父さんの五代目志ん生師匠の影響だろう。

三木助が芝浜の情景をえんえんとはなすところはカットしている。


 漫才は完成がないという芸だが、落語も(名人の名作はあるけど)

完成はないと、わたしは思ってる。


 志ん朝師匠は抜くところは抜いて、

おかしくたのしいところを強調して

抽出して「芝浜」を演じていると思う。


わが落語鑑賞 (河出文庫)

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落語名人会(14)

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昭和の名人~古典落語名演集 三代目桂三木助 一

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落語名人会(42)芝浜

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