光と風と猫。

静かに暮すことを目指します、ブログ名は中島敦の小説から。X(旧Twitter)もやっています。

横浜大空襲から74年。



 横浜大空襲から本日5月29日で74年です。

海軍記念日は5月27日だったので

海軍記念日を狙ったとも言えます。


 3月10日は陸軍記念日だったので

東京下町大空襲は昭和20年の3月10日を

狙ってやったようです。



 昭和20年5月29日午前9時20分ごろ、

米軍のB29爆撃機によって

横浜市中心部への大空襲が行われました。

市の中区、南区、西区、神奈川区を中心に、

1時間にわたって約44万の

焼夷弾が投下されました。

 死者3650人、行方不明者300人以上、

重軽傷者は1万人以上に上り、

31万人が被災しました。


 実態は東京大空襲同様に不明で、

死者は1万人以上とも言われています。

 西区、中区、神奈川区の被害が甚大です。

横浜市の三分の一が燃えて灰になってしまいました。


 横浜の中心部は山手地区と

山下公園周辺は無事だったようです。

そこは狙っていたのか?

教会があって宅地だったので避けたのか?


 都内でも目白や新宿区下落合付近は

それほど空襲被害はひどくなっかたと

目白住民や下落合地区住民の方から聞きました。

学習院があるからか?


 疎開していたと思いますが

皇族や華族、高貴の筋のお子様たちの通う学校は

米軍も狙いたくなかったのか?


 当時は焼夷弾というものについての

知識が乏しかったので

建物内に逃げ込めば助かるのではないかと

被災した方たちは思っていたようですが、

 焼夷弾は油がついてしまうと

建物でも人でもなんでも燃えてしまいます。

当時の家屋は紙と木でできていたので

油まいて火をつければあっさり燃えてしまいます。

劇場に逃げ込んでも劇場ごと

燃えてしまいます。

 住宅でも電柱でも燃えてしまいます。

 消火は有効なのですが、消火が追いつかないのが

空襲の焼夷弾です。

 防空壕に逃げ込んでも

まわりが燃えれば中で

蒸し焼きになってしまいます。

 防空壕から逃げ出して助かった方々も

います。


 平成20年(2008年)に

横浜の有隣堂で横浜大空襲の

展示をやっていましたが、

みて愕然となりました。




 あれから74年たちましたが、

戦争体験者や戦争の記憶がある人々が減っています。

 酒席とはいえ、戦争して領土をとり返すのはどうか?

と放言して批判されている

国会議員もいます。

 思想はともかくきちんと釈明はしていないです。

 東京大空襲同様に、非戦闘員である民間人が

多数殺戮された空襲をわすれてはいけません。

 
最後まで読んでいただいて

ありがとうございます。


あの日、火の雨の下にいた―私の横浜空襲

あの日、火の雨の下にいた―私の横浜空襲