とはいうものの協会は退職願を受理しないそうだ。
相撲協会もかつて分裂していたことがあった。
落語協会もかつて分裂の危機があった。
1978年に
五代目柳家小さん会長時の大量真打昇進に抗議した
六代目三遊亭圓生師が協会を脱退して
粗製乱造でない実力のある噺家の新しい理想の協会を作ろうとした。
いちおう作ったのだが、その協会はなくなってしまった。
最初熱はあったのだが、言いだした一人の立川談志が離脱して
初代林家三平師は誘われたが新協会には加わらず、
古今亭志ん朝師は理想が六代目と同じだったので
新協会に参加したが、兄の金原亭馬生師の弟子の説得によって
協会にもどった。
東京に四つあった寄席の席亭は新協会を認めず、
圓生師に協会に復帰することを望んだが、圓生師は復帰しなかった。
寄席に出られなくなった(というより自分たちで出ていったのだが)
圓生一門は地方のホールなどに出るしかなくなり、過労のため
1979年圓生師は千葉県内で急死する。
一番弟子の圓楽は師匠と距離を取り始めていた。
師匠を見捨てるということになったのだった。
このことを批判したのは弟弟子の三遊亭圓丈師であった。
三遊亭一門が衰退したので、
師匠の圓生をも批判した。
談志が黒幕のようだが、談志はちゃっかり先に協会に戻った。
その後1983年に協会から出て立川流を創設するのだが。
まあトップになってやりたい放題したかったのだろうとおもわれる。
五代目圓楽と談志はメディア対策が上手いと思う。
亡くなったときは大名人が死んだような扱いだった。
志ん朝師匠や八代目橘屋円蔵師匠が亡くなったときは地味だった。
圓丈師は「御乱心」という本で分裂協会の騒動の顛末を書いたが、
その圓丈師の本が「師匠、御乱心!」としてまた世に出る。
騒動から40年のタイミングだろう。